Prologue
著者:新夜詩希


 あれは5年前の息苦しいまでに熱い夏の日の事―――



 俺らの年代でサッカーをやってるヤツで、知らないヤツはモグリだとまで言われる伝説の一戦があった。5年前の夏。『全日本少年サッカー選手権西東京地区大会決勝戦』がそれだ。小学生以下で構成されるサッカークラブの全国大会、その地区大会の決勝戦。
 息詰まる熱戦。沸騰する応援団の声援。全てがこの胸に焼き付いて、憧れを具現化したような輝きを放つ、今尚色褪せない恒久の夢。俺の所属していたチームは早々に敗退し、俺はチームメイトと共にその試合をスタンドで観戦していた。

 相対するは『八王子少年サッカークラブ』と『町田FC』。…いや、その表現は正しくないだろう。少年サッカーでは珍しく、マスコミの注目をも集めていたその試合、見守る全ての視線は試合をする総勢22人……ではなく、その中のたった2人にだけ注がれていた。

 圧倒的攻撃力を誇る『八王子少年サッカークラブ』。決勝までの8試合で実に30点もの得点を叩き込んだ、全国屈指の実力を持つ優勝候補。
 そのチームにおいて、一際輝きを放つはエースストライカーの『神崎 道哉(かんざき みちや)』。
 同クラブの絶対的エースとして君臨し、全30点中一人で実に26点もの得点を積み上げた今大会ぶっちぎりの得点王。類稀なテクニック、想像を絶するスピード、圧倒的なパワー、そして何より、両足・頭でもどんな体勢からでもゴールに叩き込む天賦の才としか言いようのない得点感覚。点を取る為に必要な要素を何一つ零さずに持ち合わせる、所謂『天才』だ。こいつは今までに出場した全試合で得点するという偉業を続けていた。その実力は最早小学生レベルを遥かに超えている。

 一方の『町田FC』は守備のチーム。一見地味だが、その堅実にして組織的な守備はこちらも全国屈指。八王子とは対照的に、決勝までの8試合を全て無失点に抑えての決勝進出。
 こちらのチームにも天才がいた。その名は『藤森 ショウ(ふじもり しょう)』。…いや、実は俺、こいつの名前ははっきり知らない。苗字は選手紹介で見た事があるが、名前はチームでそう呼ばれているのを聞いた事があるだけなのだ。
 いつも帽子を目深に被って、冷静なコーチングで味方ディフェンダーを動かし、自らもその恵まれた身体能力・反射神経を生かしてビッグセーブを連発する。その姿まさしく『守護神』。こちらも彼がゴールを守った試合は必ず無失点になるという記録を更新中で、小学生レベルを完全に超える掛け値なしに『天才』ゴールキーパーなのであった。

『20年に一人の天才』とまで称される2人が同世代で同地区に存在し、それぞれ別々のチームに分かれ決勝で相対する。これほどお膳立ての整った舞台はない。この西東京地区の全国大会本戦出場枠は2チーム。つまり、決勝まで残ったこの両チームは既に本戦への切符を手にしている。いわばこの試合は、『西東京地区最強』の座を賭けた互いの意地とプライドをぶつけ合い己が実力を証明する戦い。天の巡り会わせか、これまで一度たりとも対戦がなかった『八王子』と『町田』。…いや、『神崎』と『藤森』。不敗神話を誇る両者の、真の意味で雌雄を決する試合なのだ。弥が上にも熱戦への期待は高まり、空気を際限なく過熱させる。

 そして、決戦の火蓋は高らかなホイッスルと共に切って落とされた。

 攻めに攻める八王子に対し、傘に入って守る町田。試合前の予想通りの展開となったその試合は、しかし。圧倒的な攻撃力を持つ八王子でも、町田の牙城は崩せない。
 頼みの神崎は徹底マークに遭い、自由に仕事をさせてもらえない。それでも尚ディフェンスを抉じ開けシュートにまで持ち込む技術は驚嘆という他ない。……だがゴールに立ち塞がるもう一人の天才が、失点を許さない。矢のように飛んでくるシュートその全てを弾き返し、ゴールに鍵を掛ける。両チーム無得点のまま怒涛の前半を終える。
 試合が動いたのは後半開始早々。カウンターから相手のミスを誘い、町田が先制した。サッカーとは不思議なスポーツで、必ずしも攻めている方が点を取るとは限らない。一瞬、ほんの1プレイで戦況がひっくり返る事はザラだ。これがサッカーの面白い所でもあるのだが。
 虎の子の1点を得た町田は、その自慢の守備力を遺憾なく発揮する。八王子は神崎を中心に死に物狂いで点を奪おうと町田のゴールに襲い掛かるが、この日の町田…いや、藤森は神懸かっていた。町田のシュート数は前後半通して3本。対して八王子はその8倍にも及ぶ24本ものシュートを放ったが、その一本たりともゴールネットを揺らす事が出来なかったのだ。

 …何を隠そうこの俺も所属チームでは藤森と同じゴールキーパーのポジションだ。藤森のその姿は憧れであり目標であり、何より絶望だった。同世代、同地区、同ポジションにあれ程の天才がいる。敗退したチームにおいてさえベンチを暖める俺では、どれだけ手を伸ばしてもあの領域には辿り着けないという『絶望』。生まれた時点で決定された、努力では埋められない絶対的な差。所謂『才能』と呼ばれる理不尽な壁の存在を打ちのめされるほどに痛感させられた。その一点において、俺はこの試合を観るべきではなかったのかもしれない。…だが、その絶望を覆して尚、胸に残る輝きがあった。それが今でも俺がサッカーを続けられる源泉のような気がする。

 タイムアップまであと数秒。スコアは0-1で町田リードのまま後半ももう僅かなロスタイムを残すのみとなった試合終了直前。遂に八王子が千載一遇のチャンスを得る。神崎がペナルティエリア内でファウルを受け、PKを獲得したのだ。キッカーは勿論神崎。これを決めれば同点で延長戦。息詰まる熱戦、その決着に用意された至上の大舞台。天才同士の一騎打ちに、サッカー場の空気が張り詰める。観客のみならず、その場にいた全ての人間が固唾を呑み、結末を見守った。
 少し長めの助走を付け、神崎は得意の右足を振り抜く。百発百中のフィニッシュシュート『ショートドライブ』。激しいマークに遭った試合中は出せなかった、神崎道哉の伝家の宝刀だ。急降下する鷹の如く美しい弧を描き、ゴールマウス左上隅を的確に捕らえる。威力・速度・精度、いずれを取っても今大会最高のシュートは、しかし。



 飛びついた藤森の右手によって弾き返された―――



 ……こうして、伝説の一戦は町田FCの勝利で劇的な幕切れを迎えた。神崎は連勝記録・連続得点記録を破られ、涙を流してその場に崩れ去る。片や町田は歓喜。その渦の中心にいるのは、勿論今試合最大の立役者である藤森。これが後にも先にも唯一、天才同士の明暗を分けた瞬間だった。

 今尚胸を打つ、色褪せない夢の一幕。傍から見ているだけの立場ではなく、その歓喜の輪の中に加われたら、あの藤森の位置に居られたらと切望して止まなかった。今もその残滓を追い求めて、俺は今日もボールを追っている。



 ………それから5年もの歳月を経て、あの熱い夏の日の対決が再び蘇る時が来るなんて、俺は夢にも思っていなかった―――――



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